私の歴史?!
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藤井裕子
母の実家のある長岡市にてあっという間に誕生。
新潟市にてすくすく仮面ライダー自転車などに乗りつつ、やんちゃかつ意地っ張りに育つ。
小学校3年生の終わりに、父の転勤にくっついて佐渡へ。小学校を佐渡で過ごす。自分では第二の故郷のように感じているが、佐渡の人はそんな3年住んだくらいでは、「故郷」などと思うのはまだまだ早い!と思っている(らしい)。
私にとって、この佐渡での3年間は人生を大きく変えたと思う。特に大きかったのは、5~6年生のときの担任であった古川三重子先生との出会い。
授業より大切な話と言って、道徳的なことをよくクラスで話した。何事にも熱心に取り組まねばならない、ということもこの先生から学んだ気がする。作文や美術や音楽にもとても力を入れてくださった、とっても優しく、でもちょっとオッチョコチョイでとっても人間的な方だった。なので、私にとっては佐渡はとっても大切。
そして新潟へ戻り、中学で吹奏楽部に。自分では全く入るつもりのなかった吹奏楽部…母に「ほら、ブラスバンド!いいわよー!」とそそのかされ(?)その気になってしまった。
しかし私が剣道部なんぞに仮入部していたので、吹奏楽部にたどり着いた頃には他のみんなは楽器を選び終わっており、「ブラスバンドってなんだ???」と思っていた私は、「なんの楽器がいいの?」と尋ねる先輩に答えようもなく、ボサーっとしてたら「トランペット空いてる?じゃー、トランペットね!」というわけで、自動的に決まってしまった。
そのあとは、負けず嫌いなので気合と根性で練習し、まんまとレギュラー的な座を奪う!!
3年生で部長になったけれど、自分が吹きたかったので指揮などをせず、トランペットの席から指示をしていたため、同級生から「ヤル気あるのか?」などとなじられ、今で言えばイジメのような状態になるが、なにせ本人がまったくもって負けた気がしていなかったため、部活内が部長派とその他の3年生という2極化してしまい、今にして考えれば、もうちょっとどうにかできただろうよ?!と思うけれど、まあそんな感じで、夏のコンクールはいわゆる「ダメ金」で終わる。それでもこの部活、私が入部した年にスタートし、2年目からコンクールに出て「銀」、そして3年目でダメ金だから、先生が全く教えに来ない部活としては結構頑張ってたほうじゃないかな?なんて…。。。
そして、部活にあこがれて新潟南高等学校へ。そしてやっぱり1年生からまんまとレギュラーの座を奪う!
別にうまかったとは思わないけど、もしかしたら今よりもいろいろ吹けたかもしれん?!
3年間しっかり満喫し、そこで新潟大学へ。ピアノが主専攻だったから1年生のときには、もうトランペットは吹かないぞ!と決意…というか封印。
しかし2年になる前についつい、あ~オケの授業あるのか…などと心ひかれてしまい、封印を解く。んで、オケの授業を指揮していた、伊藤先生にちょっとエキストラを…と頼まれ、初めて行ったのが、新潟交響楽団。
で、しかも県知事であった君さんの音楽葬で、トランペットのソロが。しかし吹奏楽くらいしかやってなかったので、オケのソロの恐ろしさなんぞ微塵も知らないので、スラっと吹き、「誰だ?あの軽い音で吹いてる奴は?」ってなことで、次から強制的にエキストラとなる。
読み替えとかぜーんぜん知らないので、いっぱい叱られる。そこに本番の助っ人として、大勢の芸大生(や芸大OB)がやってきていた。その中の1人に「ダイヤの原石も磨かなきゃ光らない」なんてホダサれ、まんまとレッスンを受けに行く。
そーして、この世界にうっかり入ってしまうのであった!!!
つづく。。。歴史の続き(大学以降)
母の実家のある長岡市にてあっという間に誕生。
新潟市にてすくすく仮面ライダー自転車などに乗りつつ、やんちゃかつ意地っ張りに育つ。
小学校3年生の終わりに、父の転勤にくっついて佐渡へ。小学校を佐渡で過ごす。自分では第二の故郷のように感じているが、佐渡の人はそんな3年住んだくらいでは、「故郷」などと思うのはまだまだ早い!と思っている(らしい)。
私にとって、この佐渡での3年間は人生を大きく変えたと思う。特に大きかったのは、5~6年生のときの担任であった古川三重子先生との出会い。
授業より大切な話と言って、道徳的なことをよくクラスで話した。何事にも熱心に取り組まねばならない、ということもこの先生から学んだ気がする。作文や美術や音楽にもとても力を入れてくださった、とっても優しく、でもちょっとオッチョコチョイでとっても人間的な方だった。なので、私にとっては佐渡はとっても大切。
そして新潟へ戻り、中学で吹奏楽部に。自分では全く入るつもりのなかった吹奏楽部…母に「ほら、ブラスバンド!いいわよー!」とそそのかされ(?)その気になってしまった。
しかし私が剣道部なんぞに仮入部していたので、吹奏楽部にたどり着いた頃には他のみんなは楽器を選び終わっており、「ブラスバンドってなんだ???」と思っていた私は、「なんの楽器がいいの?」と尋ねる先輩に答えようもなく、ボサーっとしてたら「トランペット空いてる?じゃー、トランペットね!」というわけで、自動的に決まってしまった。
そのあとは、負けず嫌いなので気合と根性で練習し、まんまとレギュラー的な座を奪う!!
3年生で部長になったけれど、自分が吹きたかったので指揮などをせず、トランペットの席から指示をしていたため、同級生から「ヤル気あるのか?」などとなじられ、今で言えばイジメのような状態になるが、なにせ本人がまったくもって負けた気がしていなかったため、部活内が部長派とその他の3年生という2極化してしまい、今にして考えれば、もうちょっとどうにかできただろうよ?!と思うけれど、まあそんな感じで、夏のコンクールはいわゆる「ダメ金」で終わる。それでもこの部活、私が入部した年にスタートし、2年目からコンクールに出て「銀」、そして3年目でダメ金だから、先生が全く教えに来ない部活としては結構頑張ってたほうじゃないかな?なんて…。。。
そして、部活にあこがれて新潟南高等学校へ。そしてやっぱり1年生からまんまとレギュラーの座を奪う!
別にうまかったとは思わないけど、もしかしたら今よりもいろいろ吹けたかもしれん?!
3年間しっかり満喫し、そこで新潟大学へ。ピアノが主専攻だったから1年生のときには、もうトランペットは吹かないぞ!と決意…というか封印。
しかし2年になる前についつい、あ~オケの授業あるのか…などと心ひかれてしまい、封印を解く。んで、オケの授業を指揮していた、伊藤先生にちょっとエキストラを…と頼まれ、初めて行ったのが、新潟交響楽団。
で、しかも県知事であった君さんの音楽葬で、トランペットのソロが。しかし吹奏楽くらいしかやってなかったので、オケのソロの恐ろしさなんぞ微塵も知らないので、スラっと吹き、「誰だ?あの軽い音で吹いてる奴は?」ってなことで、次から強制的にエキストラとなる。
読み替えとかぜーんぜん知らないので、いっぱい叱られる。そこに本番の助っ人として、大勢の芸大生(や芸大OB)がやってきていた。その中の1人に「ダイヤの原石も磨かなきゃ光らない」なんてホダサれ、まんまとレッスンを受けに行く。
そーして、この世界にうっかり入ってしまうのであった!!!
つづく。。。歴史の続き(大学以降)