歴史の続き(大学以降)
というわけで、なぜかピアノ科で調律師を目指すはずが、トランペット吹きを目指すハメに。
とはいっても、本当にやりたかった仕事は、「吹奏楽などの指導」。これが昔から今も変わらない、私のやりたかった仕事。
だったら、学校の先生になったら良かったと思うのだけれど、人には向き不向きというものがあると勝手に思っており、学校の先生というのは、毎日の授業の計画やらなんやらに始まり、年間計画やら、果てはその子の将来なんぞまでを見通して、あらゆる観点から指導をしていくものだと私は思ったもので、なにせ自分自身の「計画」すら立てられない人間が、人間の将来を左右するようなことを「計画して計画的に」指導するなんて、どう考えても無理でしょー!
だから、そんな罪作りなことはしますまい…と固く心に決めていたのだ。
するってーと、どうしたら吹奏楽の指導者になれるでしょう???ということになる。。。。
んで、チラリと周りを見たら(中学生の頃ね)、出入りの楽器屋さんが合奏を見て指導してくれてた…
そーか!!!楽器屋さんになったらいいんだな!
そして、数年後。親を連日あらゆる角度から説得し、ついにピアノを買ってもらった日のこと。
なんと、そのときに指導しに来てくれていた人がピアノを持ってウチにきたではないか!!
そう、その人の本当の仕事は調律師だったのだ。
なーるほど…楽器屋さんになるには調律師だ!!!
ちょうど、まるで適当ながら幼稚園からヤマハ音楽教室に通ったりしていて、まぁそこそこピアノは弾けた。それに高校時代は耳の良さに命をかけており、1Hz単位で音の高さを絶対的に聞き分けることができたので、このまま頑張ればきっと調律師にもなれるさ~と思っていたってわけ。
ウチの両親は、「高校卒業後は大学に進学すること。ただしウチから通える国立大学のみ。浪人は不可。落ちたら即ガソリンスタンドに勤めること」という、なかなか豪快な要求を突きつけて来たが、まあさもありなん…と思ったので、とにかく最終的に「調律師」になったときに役に立ち、その上、自分も興味がある学部に行けばいいやなんて、思ってたもんだわね。
さてさて、話が戻りすぎたので、話を進めると…
というわけで、結局ピアノで教育学部の音楽科に行ったわけだけれど、そんな状況でトランペットのレッスンを受けつつ、あちこち指導に行ったりしていた。で、大学の地層学の授業で私の憧れのヤマハの調律師のアカデミーがある浜松は東南海地震がかなりの高確率で近々来るということを習ったため、そんなところで死んではたまらん…と、徐々に目標が調律師からダイレクトにトランペットや吹奏楽の指導者になる方向へ向いていったのだが、やはり、ピアノ科…
トランペットを吹く前から、主専攻がピアノだと分かっただけで、「副科のトランペットで指導なんか出来るの?」と学歴のみで疑いを受けたり、また同じく指導や演奏をしていても、音大生に比べて安く買い叩かれてしまうという現実にぶち当たった。
演奏を聞いて、「それじゃーダメだね!」なら恐らくそんなマネはしなかったと思うんだけど、まずは学校名だけで「門前払い」になるんだ…ということを思い知らされた私は、こうなったら学歴の看板を手に入れよう!と密かに進学を決意。
いろいろ迷ったけど、今思えば中途半端なチョイスかつ、さらに今思えば、よく合格したな…と感動するが「芸大」と付けばちょっとは状況が良くなると考えて、東京藝術大学の別科という、ひところ社会人選抜と言われていたような枠に入学。
受験したのは、国立音大とかいろいろな音楽大学の4年生を卒業した人たちだったので、副科トランペットの私が合格したのはなかなか素敵でミラクルチックであった!!
まあ当時トランペット科の教授であった杉木先生が、私の意図を汲んでくれたのかもしれなく、その線は見なかったことにしたい反面、恐らくちょっとはあったかもしれない。でも何はともあれ、まあまあ激戦を勝ち抜いて、何とか「芸大」の看板をちょろっと頂く事ができた。
入学後は、最初は音楽性で若者(学部に入学した同級生は現役の子が6歳下。あとは浪人で入った子たちが微妙に年が近くはなったけど、みな若かった!)には負けないよぉ~っと意気込んだものだけれど、半年もすると、彼らのポテンシャルの高さには全くもって…
私が一生懸命練習した曲を何と初見である程度の形にしてしまう。
「へ~、こんな曲なんだ。いいね!」
こんな調子。恐るべし。
2年生になり、杉木先生がフランスに勉強に行ってしまったので、関山先生の門下にしていただいた。
関山先生は私のメンタルを一生懸命支えてくださり、マインドコントロールなどを勧められた。
学生の間は一切効果は感じられなかったけれど、2年間の別科生活が終わり、卒業して最初に受けたオーディションでアルチュニアンを吹いた時、突如としてその効果が現れた。
写経や太極拳、絵手紙、自己催眠…いろいろやったことで、集中力やらなんやらがついに開花したらしく、我ながら音楽と一体化!ってこういう事なんだな~って。
このことはその後の仕事に本当に役に立った。別に急にうまくなったとか技術が上がったとかではないのだけれど、「心のままに」吹けることがとても多くなったのだ。
でも、どこか油断していたと思う。そういうトレーニングをしなくなって5~6年も経った頃だろうか…
ありゃっ?と思った瞬間があった。音楽と体が離れた気がした。
で、慌てたりあがいたりしていたら、もっともっと離れていった。
辛い時期だった。
でも、あきらめないってのはいいもんで、ようやく別れ別れになっていたものがまたひとつになりつつある。
たくさんのことを学んで、また一回転したような感じ。
ひょっとしたら、「教える仕事がしたい」という私にとって、この辛い、トランペットも投げ出しちゃいたいようなこの時期が、生徒に教える上での肥やしになってくれるかもしれない。いや、なってきていると思う。
辛い時期を乗り越える経験をしたことで、今まで人に言われたことをあたかも自分の考えたことのように錯覚してそのまま右から左へ教えていたことや、当たり前と思いすぎて考えもしなかったことが、自分の体を通して、経験を通して、本当に実感を持ったものに変わったと思う。
そうは言っても、まだまだまだまだ…お話にならないペーペーペーですが、そんな歴史があって、今の私がいたりしますです。
相当すっ飛ばしてたり、一部に偏ってたりしますが(*´∀`)
読んでくれてありがとう。
そんなこんなな心が詰まっチョリます。
2024年1月現在、、、
2020年頃から世の中が「コロナ禍」になり、都内での仕事が制限されていく中で、まさかの住んでいたビルの取り壊しが決まり、移転を余儀なくされる、、、、
そこで、かねてから「こんなところに住めたらなぁ、、、」と思っていた群馬県に移住を決意。
2022年8月、群馬県桐生市の黒保根町に完全移住。
現在は、くろほねをこよなく愛しつつ、群馬を拠点に各地で活動中。
とはいっても、本当にやりたかった仕事は、「吹奏楽などの指導」。これが昔から今も変わらない、私のやりたかった仕事。
だったら、学校の先生になったら良かったと思うのだけれど、人には向き不向きというものがあると勝手に思っており、学校の先生というのは、毎日の授業の計画やらなんやらに始まり、年間計画やら、果てはその子の将来なんぞまでを見通して、あらゆる観点から指導をしていくものだと私は思ったもので、なにせ自分自身の「計画」すら立てられない人間が、人間の将来を左右するようなことを「計画して計画的に」指導するなんて、どう考えても無理でしょー!
だから、そんな罪作りなことはしますまい…と固く心に決めていたのだ。
するってーと、どうしたら吹奏楽の指導者になれるでしょう???ということになる。。。。
んで、チラリと周りを見たら(中学生の頃ね)、出入りの楽器屋さんが合奏を見て指導してくれてた…
そーか!!!楽器屋さんになったらいいんだな!
そして、数年後。親を連日あらゆる角度から説得し、ついにピアノを買ってもらった日のこと。
なんと、そのときに指導しに来てくれていた人がピアノを持ってウチにきたではないか!!
そう、その人の本当の仕事は調律師だったのだ。
なーるほど…楽器屋さんになるには調律師だ!!!
ちょうど、まるで適当ながら幼稚園からヤマハ音楽教室に通ったりしていて、まぁそこそこピアノは弾けた。それに高校時代は耳の良さに命をかけており、1Hz単位で音の高さを絶対的に聞き分けることができたので、このまま頑張ればきっと調律師にもなれるさ~と思っていたってわけ。
ウチの両親は、「高校卒業後は大学に進学すること。ただしウチから通える国立大学のみ。浪人は不可。落ちたら即ガソリンスタンドに勤めること」という、なかなか豪快な要求を突きつけて来たが、まあさもありなん…と思ったので、とにかく最終的に「調律師」になったときに役に立ち、その上、自分も興味がある学部に行けばいいやなんて、思ってたもんだわね。
さてさて、話が戻りすぎたので、話を進めると…
というわけで、結局ピアノで教育学部の音楽科に行ったわけだけれど、そんな状況でトランペットのレッスンを受けつつ、あちこち指導に行ったりしていた。で、大学の地層学の授業で私の憧れのヤマハの調律師のアカデミーがある浜松は東南海地震がかなりの高確率で近々来るということを習ったため、そんなところで死んではたまらん…と、徐々に目標が調律師からダイレクトにトランペットや吹奏楽の指導者になる方向へ向いていったのだが、やはり、ピアノ科…
トランペットを吹く前から、主専攻がピアノだと分かっただけで、「副科のトランペットで指導なんか出来るの?」と学歴のみで疑いを受けたり、また同じく指導や演奏をしていても、音大生に比べて安く買い叩かれてしまうという現実にぶち当たった。
演奏を聞いて、「それじゃーダメだね!」なら恐らくそんなマネはしなかったと思うんだけど、まずは学校名だけで「門前払い」になるんだ…ということを思い知らされた私は、こうなったら学歴の看板を手に入れよう!と密かに進学を決意。
いろいろ迷ったけど、今思えば中途半端なチョイスかつ、さらに今思えば、よく合格したな…と感動するが「芸大」と付けばちょっとは状況が良くなると考えて、東京藝術大学の別科という、ひところ社会人選抜と言われていたような枠に入学。
受験したのは、国立音大とかいろいろな音楽大学の4年生を卒業した人たちだったので、副科トランペットの私が合格したのはなかなか素敵でミラクルチックであった!!
まあ当時トランペット科の教授であった杉木先生が、私の意図を汲んでくれたのかもしれなく、その線は見なかったことにしたい反面、恐らくちょっとはあったかもしれない。でも何はともあれ、まあまあ激戦を勝ち抜いて、何とか「芸大」の看板をちょろっと頂く事ができた。
入学後は、最初は音楽性で若者(学部に入学した同級生は現役の子が6歳下。あとは浪人で入った子たちが微妙に年が近くはなったけど、みな若かった!)には負けないよぉ~っと意気込んだものだけれど、半年もすると、彼らのポテンシャルの高さには全くもって…
私が一生懸命練習した曲を何と初見である程度の形にしてしまう。
「へ~、こんな曲なんだ。いいね!」
こんな調子。恐るべし。
2年生になり、杉木先生がフランスに勉強に行ってしまったので、関山先生の門下にしていただいた。
関山先生は私のメンタルを一生懸命支えてくださり、マインドコントロールなどを勧められた。
学生の間は一切効果は感じられなかったけれど、2年間の別科生活が終わり、卒業して最初に受けたオーディションでアルチュニアンを吹いた時、突如としてその効果が現れた。
写経や太極拳、絵手紙、自己催眠…いろいろやったことで、集中力やらなんやらがついに開花したらしく、我ながら音楽と一体化!ってこういう事なんだな~って。
このことはその後の仕事に本当に役に立った。別に急にうまくなったとか技術が上がったとかではないのだけれど、「心のままに」吹けることがとても多くなったのだ。
でも、どこか油断していたと思う。そういうトレーニングをしなくなって5~6年も経った頃だろうか…
ありゃっ?と思った瞬間があった。音楽と体が離れた気がした。
で、慌てたりあがいたりしていたら、もっともっと離れていった。
辛い時期だった。
でも、あきらめないってのはいいもんで、ようやく別れ別れになっていたものがまたひとつになりつつある。
たくさんのことを学んで、また一回転したような感じ。
ひょっとしたら、「教える仕事がしたい」という私にとって、この辛い、トランペットも投げ出しちゃいたいようなこの時期が、生徒に教える上での肥やしになってくれるかもしれない。いや、なってきていると思う。
辛い時期を乗り越える経験をしたことで、今まで人に言われたことをあたかも自分の考えたことのように錯覚してそのまま右から左へ教えていたことや、当たり前と思いすぎて考えもしなかったことが、自分の体を通して、経験を通して、本当に実感を持ったものに変わったと思う。
そうは言っても、まだまだまだまだ…お話にならないペーペーペーですが、そんな歴史があって、今の私がいたりしますです。
相当すっ飛ばしてたり、一部に偏ってたりしますが(*´∀`)
読んでくれてありがとう。
そんなこんなな心が詰まっチョリます。
2024年1月現在、、、
2020年頃から世の中が「コロナ禍」になり、都内での仕事が制限されていく中で、まさかの住んでいたビルの取り壊しが決まり、移転を余儀なくされる、、、、
そこで、かねてから「こんなところに住めたらなぁ、、、」と思っていた群馬県に移住を決意。
2022年8月、群馬県桐生市の黒保根町に完全移住。
現在は、くろほねをこよなく愛しつつ、群馬を拠点に各地で活動中。